孫中山の由来
明治天皇の母の第一位の局中山慶子は、花山院流中山家の出で、長兄中山忠愛は、侯爵に叙されて、日比谷に邸宅を構えた。
中国の国民党を主導した孫文は、1911年の辛亥革命に踏み切る前は、本国の清帝国の官憲に追われてしばしば日本に渡り、犬養毅をはじめとする支援者のもとを渡り歩くとともにひそやかに同志を糾合していた。
日本への入国に尽力したのは、中国に傾斜していた平山周で、ある晩、ふたりで京橋の旅館に投宿することになったおり、宿帳に氏名を記すにつけ、孫文は、警戒して本名の記名を避け、日比谷の邸宅の表札にあった「中山」と記名し、これを日本名とした。
その後、孫文は、「孫中山」として、あまねく知られるようになり、「中山先生」となって、南京にある墳墓は「中山陵」、広州には、国立中山大学という名門校さえある。中国共産党は、孫文の影響下にもあったから、孫文の国父としての地位に揺らぎはない。
まあ、知っていて「中山」を名乗ったのだろうけれど、中国で由来を知っている方は、こんなことにはあえて触れないし、日本のほうも、過去のはなしを持ち出して、相手を当惑させる必要もないのだけれど、こんな話もあるということで、備忘のために記します。
もしかしたら、それは、光緒帝の新政を、結果として潰した西太后への当てつけがあってのことなのか、とも疑う。